殿、しんがりを任されるの巻

HRを軸にチームビルディングを行う集団「株式会社アカツキボーイズ」の執行役員が切り取る日常

殿、今の仕事を選んだ理由の巻

今週のお題「今の仕事を選んだ理由」ですが、私の場合は、

社長に拾われたからです。

 

せっかくなので、現在までの経緯を書きます。

工学系大学院を卒業後、機械メーカーでエンジニアとして働きました。油にまみれ、鼻水にまみれながらPCをカタカタ、そんな生活でした。当時の仕事は労働環境としては、あまり良いとは言えませんでしたが、それでも私はその仕事が好きでした。仕事柄、色々なメーカーさんの開発現場に入れました。未発表の新車が見れたり、原発用タービンの大規模実験に立ち会ったり、特権といいますか、特別な体験ができる仕事だと思っていたからです。

給料も十分でしたし、会社の同僚にも恵まれ、今でも一緒にバイクでツーリングに行ったり、バンドやったり、プラモデル作ったり色々やってます。仕事内容はハードでしたが、人に恵まれた職場でした。そんな仕事を私はたった3年半で辞めることになります。

 

私には農業を営む叔父がいます。農家の中でも成功している方で、まぁかなりお金持ちです。しかしその人には子供がおらず、奥様もずいぶん前に他界されています。俗にいう「跡継ぎ問題」ってやつですね。私は亡くなった奥様に生前「後のことお願いね」と言われていました。真意は不明ですが、いずれは継いでくれと言われたのだと解釈し、40代になったら農家になろうかなー程度に思っていました。しかし、私が就職して数年後に叔父が病気を患い、一人で農業を続けていくことが困難になってしまいました。私は「どうせ農業やるんなら、早いうちに始めて日本一目指そう」と思い退職を決意、農家になりました。

 

両親からはかなり反対されましたが、農家として再出発。農家の親戚は母方の実家であり、私の実家の近所だったので、幼少期より畑で育ったようなもんです。ランドセル背負う前からトラクター乗ってました。なので、わりとすんなりと農業界に入っていけたと思います。農業試験場で研修を経て、本格的に農業をスタートし、生産者団体に所属しながら精力的に勉強しました。休みは少なくなりましたが、充実した日々でした。そんな楽しかった農業も、私は辞めてしまうことになります。

 

農業を始める際に、両親が反対した理由がその叔父でした。非常に難しい人で、よくいう老害ってやつなんでしょう。「自分は王様・他は家来」とか「自分は優秀・他は無能」といった考え(勘違い)を持っていて、平気で人を傷つけるタイプの人間でした。私の父も、これまで何度もその叔父に裏切られてきました。私自身その事を理解していたつもりでしたが、家族のいない叔父への同情が上回り、両親の反対を押し切る形になります。

 

充実した農家生活は、同時に叔父からの罵声を浴びる日々でした。疲弊はしましたが、親方ですので当然です。8割くらいはとんちんかんな事で怒られましたが、糖尿病と脳梗塞のせいなのだと自分に言い聞かせていました。何より農家として尊敬していましたので、耐えることができました。腐った梨を投げつけられても耐えました。耐えていると思っていました。実際は心の疲弊が進んでいたようです。

 

2015年の夏、数日に渡りひどく怒鳴られていました。やれと言われた仕事をしていて怒鳴られ(お前がやれっていったじゃん)、お前は素直じゃないと急に怒鳴られ(何のことやねん)。ちょっとまいってましたが、これくらい平常運転です。ただ、その日は普段と違い、叔父と私のやり取りに、私の父を巻き込んでしまいました。叔父の父への罵声を聞いた時に、私の中のかつての決意が崩れました。家族にまで同じ思いをさせられない。週明け、退職願を出しました。

 

農家を始めた当初、私を歓迎し「全力でサポートします」と言っていたJAや役所は、その日を境に私の事を知らんぷり。未だに何も言ってきませんが、組合会費の請求書だけ送ってきます。私の肩を持って下さった農家仲間もいましたが、我関せずな人もいました。

 

世の中こんなもんか

 

正直、少し周りのフォローを期待しましたが、これは私の図々しい考えでした。関係者の人にとってはめんどくさいだけですもんね。それでも、今までの自分は何だったんだろうと、自分の無価値さに絶望しました。私は社会的に一人ぼっちになりました。誰も給料をくれません。誰も仕事をくれません。社会から外れたところに私はいました。これからどうしよう?あまり時間をかけずに結論を出しました。

 

もういいや、自殺しよう。

 

私には恋人もいませんし、友人たちはそれぞれ家庭を持ち、どんどん疎遠になっています。変な言い方ですが、自殺するチャンスだと思いました。数日の間、家からもベットからも出ずに、自殺の方法を考えました。どこで死のうか、いつ死のうか、苦しみたくはないし、両親や友人にかかる迷惑も少ない方法はないか。死ぬのは先延ばしにして東北の被災地へ行ってボランティアでもしようか、でも、またみんなから切り捨てられるのが怖い。自分が死んだら、悲しんでくれる人はどれくらいだろうか、あいつは泣いてくれるかな、農業関係者は私の事をやっぱり弱い奴だったと笑うだろうか、サラリーマン時代の同僚達は私が弱かったから会社を辞めたのだと思うのだろうか。死のうと決めたくせに未練タラタラな自分を、更に情けなく思いました。その間、母は毎日電話を寄越しました。とりあえず帰っておいで、と。私は実家に帰りました。

 

両親は農業を辞めたことを知っています。合わせる顔なんぞありませんでしたが、ある日の夕方に、私は実家へ帰りました。「おかえり」と言われ、「ただいま」を言えませんでした。食卓には私の分まで夕食がありました。父は私のグラスにビールを注ぐと、泣きながら言いました。

 

「じゃあ、お前の新しい門出を祝って乾杯しよう」

 

私は、死ねなくなりました。

 

30過ぎた息子が無職になったのに、この人は何言ってんだよ。泣いてばかりだったので、その日の事はあまり覚えていません。取りあえず死ぬことを辞めました。

 

さて、生きていくには仕事をしないといけません。私には何ができるだろう?エンジニアには戻れませんし、やっぱり農業がやりたい。畑を求めて多くの地域に行きました。地方では、農家の高齢化が進み、新規で農業を始める方を支援する自治体が数多く存在します。未だかつてないほどに農業を始めやすい時代と言えます。新規参入者には開始から5年間に年間150万円程の補助金が出たり、住宅の補助が受けられたりと、様々な補助制度があります。問題は対象が新規参入者である点。私は元生産者であり、新規ではないために補助が受けられません。貯えもそれほどなく、支援制度無しでは数年間収入がゼロになってしまいます。農業はすぐにはお金になりませんからね。やる気はあったのですが、踏ん切りがつかず、東京をフラフラする生活が2ヵ月程続きました。

 

日銭を稼ぐバイトをしながら、まったく見えてこない自分の将来が不安で、睡眠障害を患い2日に一度寝る日々。その日、私は浅草橋の下でミャアミャア鳴いていました。すると一人の男性が私を拾い上げてこう言いました。

 

「ユー!会社やっちゃいなよ☆彡」

 

こうして株式会社アカツキボーイズが誕生しました。ここまできて恥ずかしくなったので、最後の方端折りましたが、要は私を拾ってくれたのが社長であり、彼が会社をやるというので、その手伝いをしています。ちなみに社長とは中学1年からの親友です。

親友が拾ってくれた...というより「親友がやると言ったから」が、今の仕事を選んだ理由です。

 

次回「殿、ブルーレイが再生できなくなるの巻」